日本笑い学会マーク

日本笑い学会の概要

TOP > 日本笑い学会とは? > 学会前史 ―「笑学の会」の頃―

日本笑い学会のあゆみ 学会前史 ―「笑学の会」の頃―

その生い立ち

 「日本笑い学会」の前身にあたる笑いの研究グループ「笑学の会」は、1978(昭和53)年3月、「漫才研究会」(仮称)として活動を開始した。3ヵ月後の同年6月に至って会名を「笑学の会」と改め、代表世話人の井上宏をはじめ事務局長その他の世話人を決定し、同時に正式の会則を制定した。

 その第3項(目的)には「本会の目的は、会員相互の交流につとめ、上方演芸に関する笑いの研究活動を通じて文化の向上・発展に寄与することとする」とうたわれていて、「漫才研究会」(仮称)として発足した名残りをとどめ、現在の学会が時折間違えて呼ばれる「お笑い学会」に近い存在であったことが感じられる。

 構成メンバーは、学者、作家、評論家、放送関係者、新聞関係者などが中心で、第1回会合の出席者は7名であった。2年後の1980(昭和55)年7月には会員数は35名に増え、原則として月1回、地道な研究活動が続けられた。

 そうした着実な活動に加えて、発足半年後の1978(昭和53)年9月、早くも対外的活動が加わってきた。9月13〜15日の3日間、大阪・心斎橋パルコを会場に漫才ライブ『ダイラケ爆笑三夜』を主催し、連夜立ち見が出るという大成功をおさめた。

中田ダイマル・ラケット爆笑三夜の開催

 「中田ダイマル・ラケット爆笑三夜」の企画は、まだ「笑学の会」という正式名称が決まっていなかった頃の「漫才研究会」(仮称)の第1回会合で持ち上がった。

 その日は読売テレビの有川寛が「中田ダイマル・ラケットの漫才について」の発表を行ない、後の意見交換で、ダイマル・ラケットは上方漫才の中で大きな位置を占める存在であるにもかかわらず、彼らについて書かれた記録、漫才のレコード・台本が皆目残っていないことが話題になり、両師の漫才を聞く会を開こうということになった。

 この案が第3回の会合で具体化され、井上宏を代表にした「笑学の会」世話人が「ダイマル・ラケットの漫才鑑賞会」の準備に動き出した。

 準備段階では井上宏が両師に取材の際、「ダイラケ漫才の台本が文字で残っていないのは、ネタがすべて二人の頭の中にあり、それはお客さんの前でないと語れない。」と言われ、ますます鑑賞会の必要性を感じたと後に語っている。

 その思いは他の世話人たちも同じだったようで、放送関係の会員らの働きかけもあり、「ダイマル・ラケットの漫才鑑賞会」は、発案から半年後に「中田ダイマル・ラケット爆笑三夜」と題して、1978(昭和53)年9月13日〜15日の3日間、午後6時30分開演で、心斎橋のパルコスタジオにて、「笑学の会」の主催、「朝日文化工房」「上方芸能」「笑の会」の後援で実現した。以下、その内容をこの機会に可能な限り、詳細に記録しておく。

 第一夜、ダイマル・ラケットの漫才は『僕は名医』『僕は小説家』『僕は幽霊』の三席。『僕は名医』については、チラシ等の予告では『僕のペット』であったが、二人が初めて舞台で演じた演目を是非、と言う関係者の希望で当日になって変更となった。対談コーナーの聞き手が朝日放送の狛林利男で、戎橋松竹の思い出話やラジオの寄席中継の話題で盛り上がった。漫才のゲストは横山やすし・西川きよしで、『同窓生』を演じた。他に花束を持って応援に現れたのが、かしまし娘の正司歌江と桂三枝だった。

 第二夜、漫才は『新憲法』『地球は回る、目は回る』『君と僕の恋人』の三席。対談コーナーは新野新が聞き手を務めた。会場にはラジオ番組『お笑い街頭録音』で、初めて二人を番組に起用したプロデューサーの姿があったので、当時の番組のことや後の北野劇場での実演の話が繰り広げられた。漫才のゲストは中田カウス・ボタンで、『おとぎ話』を演じた。他に花束を持って応援に現れたのが、正司敏江とレッツゴー正児だった。

 第三夜、漫才は『僕の農園』『家庭混線記』と、予定されていた『交通地獄』を変更して『恋の手ほどき』の三席に、アンコールに応じて演じた『金色夜叉』。対談は前の2日間の冒頭で、会を代表して挨拶にも立った井上宏、楽屋にいた香川登枝緒も参加して、『スチャラカ社員』などテレビ・ラジオ番組の話から、二人のギャラの配分にまで飛び火して、大いに盛り上がった。漫才のゲストはWヤングで『結婚披露宴』を演じた。この日は、博多淡海、白羽大介、吾妻ひな子、桂枝雀が花を添えた。

 会場のパルコスタジオは、畳敷きにしても200名も入ればあふれる広さなのだが、この3日間は予想以上にお客さんが集まり、会場整理にあたった「笑の会」のメンバーのざ・ぼんちがお客さんに度々、膝送りをお願いし、連日250名のお客さんが、ほとんど身動きできない状態の超満員で、これでも多くのお客さんに入場をお断りしたほどの大盛況であった。

 客層もダイラケ世代の中高年だけでなく、半分は若年層で、これらのお客さんが爆笑につぐ爆笑に沸き、「笑学の会」初のイヴェントは成功し、打ち上げの席でダイマル・ラケット師匠は、感謝の言葉とともに「嬉しい」と号泣してくれた。

 落語ではよくあることだが、一組の演者が三席演じる独演会というのは漫才では初めてのことであった。この模様は読売テレビとラジオ大阪が収録して放送され、さらにCBSソニーによってレコード化され、『僕は幽霊』『家庭混線記』『僕の農園』『地球は回る、目は回る』の四編が、中田ダイマル・ラケットの記録として残った。

放送演芸史の編纂

 「中田ダイマル・ラケット爆笑三夜」の開催と並んで、「笑学の会」が残したもう一つの業績は、『放送演芸史』の編纂であった。「笑学の会」の会合が重なるうち、「これだけの顔ぶれが集まっているのだから、在阪各局の演芸番組の歴史をまとめることができるのではないか」との話が持ち上がり、徐々に構想がふくらんでいった。対象とする放送機関は在阪の6社で、開局の順にNHK大阪放送局、毎日放送、朝日放送、ラジオ大阪、読売テレビ、関西テレビを取り上げ、その期間は1925(大正14)年から1980(昭和55)年までとした。

 その構想を現実のものとするには、まず資金調達が必要となる。会員の長島平洋の発案で、財団法人「放送文化基金」に資金援助の申請を行なったところ、これが承認されて1981年と翌年の2年にわたり、助成援助金が受けられることとなった。

 出版社は、代表世話役の井上宏が既に複数の著者を出版していた京都の出版社『世界思想社』と交渉が成立し、実現へ大きく踏み出したのであった。

 次のステップは、各局を担当する執筆者を決めることであった。NHK、朝日放送、ラジオ大阪、読売テレビには、それぞれ「笑学の会」の会員が勤務しているので、その者が受け持つこととし、関係者のいない毎日放送と関西テレビについては、会員である評論家、作家の方々に担当してもらうこととした。

 その結果、執筆者はNHKラジオ前期を熊谷富夫、NHKラジオ後期とNHKテレビを長島平洋、毎日放送を相羽秋夫、朝日放送を環白穏、ラジオ大阪を都筑敏子、読売テレビを山口洋司、関西テレビを古川嘉一郎が担当し、全体の編集と序章「放送と演芸」を井上宏が受け持つこととなった。

 次は基礎資料の収集である。各放送機関には番組確定表とも呼ばれる日々のプログラムが永久保存されている。これを特別に閲覧させてもらって、演芸人の出演した番組を一番組一枚のカードに書き写すこととした。

 カードには、番組名、副題、放送日時、中継・スタジオの別、制作局、ジャンル別、種目別、個々の演題、構成者、作者、出演者が書き込める形にした。

 ジャンル分けは、A(純粋演芸)、B(バラエティー)、C(喜劇)、D(司会・DJ・審査員)、E(ワイドショー)、その他と分類した。また種目別とはA(純粋演芸)の中身で、漫才、落語、浪曲、講談、奇術、ものまね、漫談、小咄、雑芸の10種目に分類した。

 プログラムからカードへの書き写しは、アルバイト諸君の協力を得て、1981(昭和56)年秋から約1年の歳月をかけて行なわれた。

 カードが出揃うと、次は各担当者がそれぞれ独自の方法で、カードにある個別の要素を集計する作業に入った。パソコンは、まださほど普及しておらず、全ては手作業によって行なわれた。その集計結果を図表化し文章化する作業に約2年、全ての原稿が調ったのは1984(昭和59)年10月であった。

 初版発行は、翌1985(昭和60)年4月20日で500部、再版は同年7月2日に300部、これが最終版となった。

 314ページの本文、23ページの年表、27ページの索引からなる『放送演芸史』が取り扱った最後の年である1980(昭和55)年は空前の漫才ブームが起こった年であり、桂三枝氏による創作落語活動が胎動し始めた年でもあった。関西の演芸番組は、この年を一つの境として新たな時代に入っていった。

 その足跡を記す『放送演芸史』第2巻が遠からず編まれることを期待したい。

研究の跡

 「笑学の会」会報のバックナンバーをひもとけば、研究報告の数々をたどることができる。いわく『中田ダイマル・ラケットの漫才について』『漫才と公開番組』『漫才台本制作上の諸問題』『漫才台本の著作権』『ガセネタ・横山エンタツ伝』『ダイマル・ラケットの漫才作法』『地域寄席における若手落語家の動向』『演芸批評家の貧困の現状』『テレビと漫才』『漫才の系図について』『中国の漫才と民衆』『若者から見た漫才ブーム』『双声表演芸術家(中国)による漫才芸術の特長』『往年の漫才を見る』『最近のお笑いタレント事情』『上方落語・戦後の歩み』『落語家事典の編集と落語資料いろいろ』など現実の演芸素材にかかわるテーマが多く見られる。

 そうした中、1980(昭和55)年2月発行の会報第4号以降、逐次『笑いのメカニズム―笑いの統一理論を目指して―』『アダムとイヴは笑ったか』『大阪弁における愛情の表現』『つかこうへいにおける行動としての喜劇論』『テレビ時代の笑いの社会学』『大阪弁と大阪人』『京都人の遊び』『船場慕情』『アメリカの笑い―シチュエーション・コメディ―』『ビル=コスビー=ショウを見る』『藤山寛美と松竹新喜劇』といった幅広いテーマが扱われるようになり、次なる段階である「笑いの総合的研究を目指す」日本笑い学会創設への発展的方向を暗示していた。

(文中敬称略)